昭和52年04月09日 朝の御理解
御理解 第52節
「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。」
驚くことはならんといわれても、これは驚かずにはおれまいと言う様なね。信心しておればどんなことが起こってきても、すこしも驚いてはならぬとおっしゃるけれども。これが驚かずにはおれろうかと言う様に、それこそびっくりぎょうてんです。本当に信心を頂いて、どういうようなことがあっても、それこそ自分の心が微動だにせぬ。それこそ、顔色一つ変えんですむおかげを頂きたいと思うですね。それには愈々神様の働きそのものを信じて疑わないという『 』にならせて貰える。
信じて疑わないですむ信心。もう『 』もう働きを信じていく。神様の働きの全てが、もうおかげをやりたいの一念。もう本当に丸い丸い心にならせてやろうとする、働き意外にないんだと、分かっただけではなくて、それが確信される信心。そういう心にです、所謂神は信ずる者を信ずると仰せられる様にね。神様を信ずるという。例えば久留米の初代がいつも言っておられたと言う事ですけれどもね。神様はね、人間氏子の一握りと言うたら、これだけだけれども、神様の一握りと言うたら、どれだけあるやら分からんと。私共が信ずる、なら神様もまた私共を信じて下さる。
その信じて下さる働きというもはどれだけあるやら分からん。だからどうでも神様の御働きそのものを信じれるおかげ。これから後どのような大きなことが起こってきても、神様のご神愛意外にないんだと確信できれるだけの信心を頂きたい。そこに信心修行がある。また信心の道理が分かっておらなければできんのです。ですからこれにはどうしてもそのいさぎよい信心というようなものが必要である。
昨日は、梅の花の信心から桜の信心へと、いわゆる御理解を頂いておったからだろうと思うんですけれども。目をつぶってじっと、ご祈念をすると、あの桜の満開のところを頂くんです。ですからあの満開ということはもう切る前提です。そしてここから、梅の花の信心にいよいよなれよ、なってくれよという神様の願いを昨日は何回もそれを頂いて感じました。いよいよ合楽全体が桜の花的な信心から梅の信心になる。
そこにはね、ならいさぎよい。桜の花がまぁ一塵の風の前にはどんなに人生を咲き誇っておっても、一朝一夕にして切ってしまうのです。だからその大和魂をまたの言葉で言うと、山桜の花のようにと言うわけです。散り際であるその塵際がね、私は大事いさぎよいものね。それに執念をかけない。例えば改まるということでも、本気で改まるためにはそういういさぎよい心が必要だと思うんです。そこから梅の花の信心。そのいさぎよさというものが私は、どっこいと受け止めれるね、またはままよという心。
そういう信心が繰り返されていくところからですね、あれもおかげであった、これもおかげであった。なるほど腹を立てることもいらなければ、あわてることもいらない。そういう信心が積み重ねられてね、いわゆる大きなことが起きてきても驚かんで済む信心。どんな場合であっても、微動だにせんですむだけの信心。一々感触が変わるようなことがない信心が頂けれると思うんですね。
昨日正義先生が若先生と話しているのを、私は後で聞かせて頂いた。もう若先生もうとにかく、神様の働きちゃもう本当に間違いがないですよ。私共がなら仕事をしておりますとね、まぁこれはよか仕事じゃから、どうでん一つお願いをして、この請け負わせて頂こうとお願いをします。ところがです、わずかばかりの開きで例えば、人の手に渡ってしまう。そのときどうしたことか、これしこお願いをして、お取次ぎを頂いているのにと思いますけれども。
それが後になってみて、本当にあの仕事を受けんでおってよかった、と思うことばかしでございますとこう言う。これはと思うてもどうでもその仕事をせにゃならんようになる。それがもう案外よい仕事であった。ですからもう神様の働きにはお願いをして起きてくることには、これは若先生もう間違いないですよ。その時点時点を有り難く頂いていく以外にはないですよというような話をしてます。
それが積み上げられていくとき、今のなら正義先生の信心があると思うんですね。そげんいっぺん、にへんじゃふが良かった。あげな仕事受けようと思いよったけど、受けんどってよかった。ふが良かったで、『 』ですけれども。それが長年の信心の体験によってですね、お取次ぎを頂いてお願いをしておきることは右であろうが左であろうがおかげだと言うのです。
もうこれは体験を積んで、積んで積みあげていかなければ言えないことです。ですからどのようなことが起こってきても、「うん間違いがない」と神様の働きに間違いがあるかと。お取次ぎを頂いてお願いをしていることじゃないかという腹ができる。その心が私は潔い心。それで、後で考えてみて、あれもおかげであったな。これもおかげであったなということになってくるわけですね。
ですから信心はやっぱ信心辛抱がいるということが分かります。お願いをしておったばってん当たらんじゃった。お願いをしておったけれどもその仕事が入らなかった。そりゃ神様はいいかげんなもんだと思ったらそれだけのことである。けれどもそこに信心辛抱。これもまだ自分の信心が足りなかったとかね。これは自分の頂き方が間違っておったというような生き方、いや神様の働きには間違いはないと確信していけれる信心が積んだ上にも積み上げられていって初めて私はこの驚かんですむ信心。
どの様な場合であっても微動だにせんで済む信心。その安心したその心に次のおかげが開けて来るのです。だから信心の稽古というのは、どうしてもなら昨日から申します、信心辛抱が大事だと。まぁあがしこ毎日参ったけれども、あれはおかげ頂ききらじゃったと。いやおかげを頂きらんじゃったのは良いけれども、神様がおかげをやりきなさらじゃった様な言い方をして、信心を薄くしたり無くしたりしていく人が沢山あります。
昨日ある人の私、昨日は名前を言いながら、ここで研修の時に話をしよりました。そしたらその椛目の妹がお参りをして、もう口汚のう親先生が悪口ばいいなさっておるのが。よう表で聞こえるそうですね。だからこれは、私の人間心かも知れませんけれども、あげな悪口はもし人が聞いているなら、ほぉ合楽の先生は、あげな人の悪口ばっかり言いなさるばいのうというて、通り掛りの者でも、聞こえるとするならどうするですか、というわけなんです。
私はそれも神ながらだと言うたもののですね、本当もう悪口を言うときには、もう名前をあげてから言うちゃいけんなぁ。まぁ昨日思わせて頂いたんですけれども。だからまぁある人がと申しました。先日からあることで、もう本当に理不尽も理不尽。もう本当にむこうの言う通りにしておって、こちらの言うことを中々聞かん。しかも日にちもぎりぎりであって、頼んでおっても出来ておるもんと思って行ったところが、その出来とらん。だからそのまぁあれだけ頼んどったのに、どうしたことか。
とまぁ売り言葉なら買い言葉で、争いがあったまま帰って来た。ところがこっちは信心があるもんですから、あのあの時には、あげなふうに言うたけれども、やっぱここはやっぱり、信心のある者がおれるのがほんなこつと思って、数日後に先日はどうも済みませんでしたと。言うて行ったら、もうむこうの方がもうニコニコとしてから、「いえこっちこそ」と、こぉ言うたという話を聞きました。
だからね、これもやはり打ち向かう者には負けてと仰るが、こういう心も潔い心だと思うんですね。もうあんやつはあげな事じゃけん、もうあげなやつとはもう付き合わん、と言うたらもうそれでお終いなんですね。けれども信心のある者が、それをねおれて出た。打ち向かう者には負けて出た。そしたら向うもちょっと言い過ぎた、そして向うが腹かくとが当たり前、はぁすまじゃったというふうに、普通に思ってたに違いない。
ですから「いや、まぁあたしこそ」と言う様な事になってまた、そういう普段のお付き合いがまた次の仕事の段取りまでなってくるわけなんです。こう言う所が私は信心の内容になる。「もうあの人とは、もう会うたっちゃものでも言わん」と言う様な生き方になったら自分の世界がそれだけ狭くなるわけですから。打ち向かう者ならやっぱ負けて行くというね。これもやはり潔い信心の稽古だと思うんですね。
又ある人がこんな話をした。嫁さんの兄さんが大変大きな仕事をしているけれども、この頃少し不如意になっている。だから信心がありますから、兄弟の事を一生懸命お願いをしてあるわけです。所がその親方がやってきてから、えらい金光様の事をくさした。そりゃもうモヤモヤしてから、あんやつの事はもうお願いをしてやらん。毎日お届けをしてお願いをしておったけれども、もう止めましたという。そしたら不思議にその頃から愈々不如意になってその親方がなっていくのですと、こぉ言うわけです。
ですからここはもういっちょ例えば、信心が分からんから、なら信心の悪口を言うておるのであるからね。やはりもうひとつここは一押し押してなら家内の兄弟の事でもあるし、それこそ誰も知らんでも分からんでも、御礼を言うてもらわんでもよい。やはり人の幸せを願う、その心がまた神心でもある。これはもういっちょ押してお願いをするべきじゃなかろうかというてまぁ話たことですけれどもね。そこまでだったら言うならば信心がある者もない者もあんまり五十歩百歩と言う事になるでしょう。
一生懸命兄弟の事じゃからと思ってお願いをしてやりおった。お取次ぎも頂いてお願いをしよったにも関わらずその自分の信じている神様の事を悪う言われた。だからそこでもうかまわんという気になった。そしたらほんなこて、いよいよ不如意にになっていくと、こう言うのです。そう言う所も私は、打ち向かう者にはまける信心こそまぁ潔い信心だと思うんです。
いよいよ神心が育って行く為には、そういう場合に望んだときに、そういうね相手が相手ならこっちもこっちと、言う様な考え方はその潔い信心にはもとる事になります。愈々合楽の信心が桜の花の信心から梅の花の信心に変わって行こうとしている。それにはね今までが合掌しておった。妄執しておった。自分の心の中のものを潔い、それを受けして打ち切っていく、潔い心が必要であると言う事でございます。
そういう信心から今なら二、三の例を持って話しましたような、内容の信心を身につけて行く事によってです、愈々どの様な事が起きて来ても驚かんですむ信心。それはどんなことが起こって来ても驚かんですむと言う事はそれだけ神様を神じ。神様の働きそのものを確信しておる事になるのです。だから氏子が信ずる、いわゆる神様は信ずる者をまた信ずるとおおせられるのですからね、神様に信じられると言う事がそのまま御神徳です。御神徳とは、神の信用じゃとおおせられます。
神様から信用受けられる、私にならせて頂く所から、愈々人間の一握りと言うたらこれだけだけれどもね。神の一握りはどれだけあるか分からんという無限大、言うなら無尽蔵のおかげにも繋がって行く事になります。それにはまずね、今日ここで表現は教祖様はね、これから後どの様な大きな事が起こって来ても驚いてはならんぞと仰せられる。けれどもこれは驚かずにはおられるかと、言った様な事はやっぱ起こってきます。
そこを日ごろの信心によってです、どっこいと受け止められる信心。心が動かない、微動だもしないね、その自分の心に合掌したい。自分の心が有難くなってくるね。なるほど神さまのご信任が付くはずだと思いますね。その内容としてまぁニ、三の例を申しましたけれども。私どもの場合ね、もうあげな人とは付き合わんと言うようなところをもうひとつこらえるというか辛抱する。
そして次の展開を願わせてもらうといったような生活のうえに、それを行の上に表していくと言った様な事がです、一つ一つの体験ともなってね、自分のおかげで世界を広げて行くことにもなるのですから、おかげを頂かなければなりません。これは不思議に本当に一生懸命の信心ができているときには本当にですね、心が微動だもせんということはこのことだろうかというようなおかげが頂かれるのです。若先生がまだ10歳の時分だったでしょうかね。
私はその朝晩もう何かしらんけど、御祈念が終わって、御祈念にここに座っているとですね、下からこうやって沸いてくるんですよ。たとえばどう言う様な事が起こっても、それこそ貧乏ゆるぎもするだんじゃありませんと、言った様な心がこぉ沸いてくるんです、その日朝からね。そうした所がもうのもう昼前だったでしょうかあの、勝彦を近所の人が抱いてきてから、その目ん玉にね、あのなにか、昔あんな遊び流行ってます。竹を投げてぽんとこぉ投げる。その竹がその目にささったんです。
だから裏に篠原さんというその方の奥さんが主人ば、あのご主人ば呼びに行ってから、それでもうびっくりして、それをこうやって引き抜いたわけです。だから目がひっくり返ってしまった、外へ出てから待っておる。それをひっ抱えてから、その御結界に家内が出てきました。もう本当にそりゃもうはっとも思わなければ、そのこうぉモリモリ沸いてきている時ですからね。「よし痛まんようにお願いするぞ」と私が言うて、家内がその二階に連れてあがった。
そのもうそれこそ、しって泣いておったのが、ぴしゃっと泣きやんだんです。それからしばらくして、家内がおりて来てから、もう不思議にあのまま寝てしもうた。そしてそのひっくり返った目がだんだん治まる。はぁ近状の遊びよった友達の、お母さん達やお父さんたちがみんなやって見えて、とにかく早うあの医者に連れて行って下さいと言うて、言いますけん、「いや大丈夫ですよ」と、神様にお願いしましたから大丈夫ですよと言うて、大変心配してくださったけれども。
それをまぁ返上して、神様に御すがりした。夕方にはねそのひくりがえったのが治まってしまって、勿論中はもう血を揉みこんだようになってました。けれどもおかげを頂いてそれっきりおかげを頂いて『 』また、正座に戻ります。こういう時なんかはですね、だから何時もかくあらなければいけないという、一つのなんかそんなものを教えて頂いたような気がします。
こちらがしだごだの信心の時には、もうそれこそこっちが、さぁそれはどうするかと言う事になってしまうでしょう。そうするとさぁどうするかになってしまうね。もう私がその時に直感した事は、そのひぃと泣いてますからね、よし痛くないように神様にお願いするぞと言うたきりで、そのまま二階に上がったら途端に泣き声がやんだ。そしてそのまま眠ってしまうと言う様なですねおかげが受けられる。だから果たして今どうか分かりませんけれどもね、そういう心の状態が開ける事の為に信心の稽古をするんです。
それを安心のおかげと言うのですね。言うならば、大安心のおかげというのではないでしょうか。それがいつもそういう信心が持ち続けられるということ。だから信心は限りない信心の修行。内容としては、今日も申しますような言うならば、小さい出来事ひとつの上にもね、いわゆる打ち向かう者には負ける。いやこれは自分が一歩ひかえておこう。これは、もうひとつこちらがおりて出直すといったようなね生き方を生活のうえに、お互いにあります、そういうことは。
ですから、そういうところを信心のけいこの材料と思っておかげを頂いていくうちに、だんだんおどろかんですむ。どのような場合であっても神様の働きそのものを信じて疑わない。理屈の上では分かっておるけれども、じっさい目の前にそれが現れると、やっぱり顔色が変わるようなことがある。顔色をかえんで済む様なおかげを頂くためにね、繰り返しそういう体験をつんでいくと言う事が信心の稽古だと思いますね。